光塩女子学院 初等科

学校紹介

卒業生の声

光塩女子学院初等科をご卒業されて、各方面でご活躍されている方からメッセージをいただきました。

髙橋聖奈様

長期的に培うことのできる教養や経験

髙橋聖奈様(初等科64回生、中高88回生)

略歴

2010年(平成22年)
光塩女子学院初等科入学
2022年(令和3年)
光塩女子学院高等科卒業

現在 東京大学文科Ⅲ類在学中

光塩の思い出を教えてください。

東大では、授業をこなしたり、学園祭の運営やサークル活動に打ち込む傍らで、幼い頃から大好きな文学に多く触れ、それについて教授や仲間と対話したり、時には論文を書いてみたりもしています。
初等科在学中は、毎週日記を書いて担任の先生方から丁寧なコメントをつけて返却して頂いたり、日々読書を欠かさず、毎年夏休みには読書感想文を書いたり、授業の一環として沢山の詩を暗誦したり、クラスの前で日直スピーチを行ったり、定期的に漢字ノートを提出して手厳しい添削をして頂いたりと、多くの言葉に触れ、多くの言葉を紡ぎ、多くの言葉を発信する場を、ここには書ききれないほど沢山提供して頂きました。
そのお陰で、紡がれた言葉に思いを馳せる共感力・新たな言葉に思いを乗せる表現力を養うことができ、今でもそれらは紛れもなく、文学好きの自分にとって、揺るぎない確かな基盤となってくれていると思います。

初等科在校生に向けてメッセージをお願いします。

勉強でも芸事でも、〈楽しいからやる→やるからできる→できるから楽しい→楽しいから…〉というサイクルを早いうちに作っておくことが大切です。大学受験の際に志を最後まで貫くことは決して容易い道ではありませんでしたが、学ぶ楽しさ・出来なかったことが出来るようになる喜びを光塩で知ったからこそ、それが自らの熱意に繋がり、その後の進路を粘り強く切り拓くことが出来たのだと思います。
初等科在学中は、朝終礼や食事などで毎日美しい祈りの言葉を唱えたり、親睦会やクリスマス会で学校一丸となって募金を行ったり、ミサにあずかったりと、「光の子、塩の子」の精神のもと、「もう1人の友のために」力を尽くす喜びと大切さを学びました。コロナ禍の影響で、オンライン化促進に拍車がかかる近年ですが、物理的距離は離れていても、心の距離はむしろ緊密に、もう1人の友のために心を向けることのできる幅広い視野を、光の子、塩の子の皆さんにも是非養ってほしいと思います。

保護者の方々へのメッセージをお願いします。

私は中学も高校も外部を受験せず、初等科から高等科の12年間を光塩で育ちました。初めての受験が大学入試となることを不安に思われる保護者の方もいらっしゃるでしょう。しかし、目先の受験勉強にとらわれないからこそ、長期的に培うことのできる教養や経験、学びは必ずあるので、是非高等科進学も視野に入れつつ、光塩での初等科生活を実りあるものにして頂ければと思います。

安枝真生様

自分に対して、そして周りの人に対して誠実であること

安枝真生様(初等科61回生、中高85回生)

略歴

2007年(平成19年)
光塩女子学院初等科入学
2019年(平成31年)
光塩女子学院高等科卒業

現在 米国 Mount Holyoke College 在学中

初等科時代からつながっていることを教えてください。

大学では、コンピュータサイエンスや物理学などを中心に勉強しています。思い返すと、初等科の頃の理科の授業が今の科学への興味の原点になっていると感じます。理科室で、この実験の結果は何だろうと持っている知識を総動員させて考え、友達と議論したこと、自分で手を動かして実験できること、そして何より先生方が辛抱強く、楽しく私たち生徒の考えを引き出してくださったこと。 これらは全て、今の大学での対話を通した学びに繋がっていると思います。アメリカのリベラルアーツカレッジは、1クラス多くて50人、少なくて7人の少人数制で、授業に出席している人全員が、何かしらの形でクラスに貢献することが求められます。緊張感がありながらも、自分の知識や強み、バックグラウンドを活かして授業に参加することは、初等科の頃から変わらないものであると感じます。
また、コンピュータサイエンスは比較的女性が少ない学問だと言われています。光塩とMHCという二つの女子校に通って感じることは、私は女性である前に人間である、ということです。光塩の先生方も、大学の教授も、ラベリングや固定観念に囚われることなく、1人の人間として包括的に真摯に向き合ってくださいました。男性優位と呼ばれる学問を専攻しようと決めた背景に、小さい頃から性別の枠に囚われることなく見守ってくださった先生方の存在があることは間違いありません。

入学を考えているご家庭へのメッセージをお願いします。

アットホームで温かな光塩生活を通して、これから先も大切にしたい考え方や姿勢を体得することができました。自分に対して、そして周りの人に対して誠実であること。自らが恵まれた教育を享受していることを自覚し、常に感謝の気持ちを忘れないこと。基礎をおざなりにせず、コツコツと丁寧に取り組むことでしか為しえないものがあること。細かいところに敬意を払う中で生まれる美しさがあること。日記やまとめノート、お祈りといった日々の習慣から、感謝の集い・クリスマス会といった学校行事まで、初等科の6年間を通して、善く生きるとはどういうことかを考える機会に恵まれたことはとても幸運なことでした。

柏原朋佳様

今につながる「光・塩」の精神

柏原朋佳様(初等科59回生、中高83回生)

略歴

2005年(平成17年)
光塩女子学院幼稚園卒園 初等科入学
2017年(平成29年)
光塩女子学院高等科卒業

現在 東京医科歯科大学医学部医学科在学

教師との触れ合いで覚えていること

日記に新学期の悩みを書くと、「柏原さんの気持ちに気がつけなくてごめんなさい」と、日記以上の長さのお返事をくださったり、自主学習ノートを提出すると、可愛いシールとともにコメントをくださったり、そういったさりげない日常のエピソードが多数思い出され、生徒一人ひとりが「かけがえのない存在である」ことを、先生方が体現する形で教えてくださっていたと感じます。そのような教育の中で「自分が輝くことで、誰かをより輝かせたい」と、他者のための自己実現を望むようになりました。

今なさっている仕事や活動の概要・やりがいの紹介、その中で初等科時代から今の自分につながっていると思う体験

光塩の生活で、自分の能力を人のために役立てることの大切さと喜びを学び、「挑戦している人がその人の最大限の価値を発揮できるような手助けをする」という人生のミッションが形作られたことで、医師を志すようになりました。現在は医学生として学びを広げており、将来はヘルスケアビジネスの力で、人々が調和の内に幸せに過ごせる世界を作りたいと考えています。

光塩とはどのような場所ですか

「感謝すること」「思いやりを持つこと」「愛を与えること」「許すこと」。人が人との交わりの中でしか生きていけないからこそ不可欠で重要な、これらの精神を身につけ、価値判断の軸が作られた場所です。
ホールに全校生徒が集まる大きな行事といえば「感謝の集い」と「クリスマス会」。学校生活を支えてくださる方への感謝を形にする「感謝の集い」はもちろん、「クリスマス会」も、イエス様の誕生祝いにはとどまらず、5~6年生が演じる劇には年毎に異なるメッセージが込められていました。
日常生活、イベント双方を通じて、今につながる「光・塩」の精神が培われた光塩は、今こうしてメッセージを書いている時にも、思い出すと温かい気持ちになる、大好きな母校です。


山本紗衣様

愛や優しさを教えてくれる場所

山本紗衣様(初等科48回生、中高72回生)

略歴

1994年(平成6年)
光塩女子学院初等科入学
2006年(平成18年)
光塩女子学院高等科卒業

小学校の頃に観た『夢から醒めた夢』に衝撃を受け、劇団四季を目指す。
幼い頃からダンスを始め、声楽のレッスンも重ねる。大学では声楽を専攻し、2010年研究所入所。
『オペラ座の怪人』で初舞台を踏み、のちにクリスティーヌを演じている。
『ウェストサイド物語』ではマリア役を務める。
『リトルマーメイド』『ジーザス・クライスト=スーパースター』『劇団四季FESTIVAL!扉の向こうへ』にも出演。

初等科時代の思い出を教えてください。

日記提出がとても印象に残っています。誤字の訂正とともに、先生からコメントが返ってくるのがとても楽しみでした。その日の楽しかった出来事の振り返りや反省、自分の考えを文章にまとめる訓練、そして先生とのコミュニケーション。正直、かなり大変でしたが、今思うと本当に良い経験だったと思います。

初等科時代からつながっていることを教えてください。

大学から専門的に西洋音楽を学び始めました。宗教曲はもちろん、オペラでも、歌曲でも、その多くはキリスト教文化が密接に関わっています。入団後もたびたび神に祈る役を演じてきました。初等科では毎日、朝礼、食前、食後、終礼のお祈りをしていましたし、毎週土曜に倫理の授業があり、シスターが聖書のお話をしてくださいました。父と子と聖霊の三位一体の図を黒板にシスターがお書きになっているのを今でも鮮明に覚えています。私自身は洗礼を受けているわけではありませんが、当時からキリスト教が生活の一部でした。その経験が、西洋音楽を学ぶ上で役立ったことは言うまでもありません。

入学を考えているご家庭へのメッセージをお願いします。

当時、漢字テストの採点がとても厳しく、1文字でも、とめ、はね、はらいが足りない文字があれば容赦無く減点でした。宿題もたくさん出ましたし、持ち物も全て校章がついていて、厳しい校則もありました。しかしその厳しさが自分に必要だったと今なら分かります。日々の身だしなみ、言葉遣い、礼儀作法、細かいところをおざなりにしない心。それを学べたのは光塩だからだと思います。
そしてその厳しさの一方で、国語の時間にバッハのメヌエットを鼻歌で歌った私に、「やめなさい!」ではなく、「美しい音楽は休み時間にしましょう。」といってくださった先生。私たち生徒のためにずっとロザリオを持ち祈ってくださっていたシスター。光塩は人間として一番大切な愛や優しさを教えてくれる場所でもあるのです。

大家百子様

今なお歌い継がれる歌声

大家百子様(初等科16回生、中高40回生)

略歴

1962年(昭和37年)
光塩女子学院初等科入学
1974年(昭和49年)
光塩女子学院高等科卒業
1981年(昭和56年)
桐朋学園大学音楽学部作曲理論学科を経て同大研究科修了
文化庁海外派遣研修員として渡独、故G.リゲティ氏他に作曲を師事
1990年(平成 2年)
ドイツおよびフランスに計10年滞在の後、帰国

現在、桐朋学園大学、青山女子短期大学、各講師。女声合唱団コール・モモ指揮者。
現代音楽協会会員、OTO(おと)の会メンバー。作曲家として大家百子、福永百子の筆名で活動。
主要作品:≪薺舞(なずなまい)(Shamisen+Orch.)≫ ≪はんぶんづき(F.Chor)音楽之友社刊≫≪Duo~第2番~(Accordion+Piano)OTOの会出版刊 https://www.youtube.com/user/OTOnoKAI≫他。

初等科時代で印象に残っていることを教えてください。

当時はシスター方のことをマドレとお呼びしていました。1年生の時の英語の先生はアメリカからいらしたマドレメルセデス。今でこそ珍しくはないかもしれませんが、英語で英語をお習いするような授業でした。シスター手作りの挿絵カードでたくさんの英単語を覚えましたが、「Jack O' Lantern(ジャックオウランタン)」のカードに、随分長い言葉だなぁ・・なんでカボチャの顔はこんなに怖いの?アメリカってどんな国かな?などと思ったことを今でも鮮やかに覚えています。4年生の頃にはスペインから見えたシスターローサの手芸の授業がありました。クロスステッチ刺繍でクッションを作りましたが、黒い布に赤や緑の糸といった鮮やかな色彩の教材が配られ、興に乗るとスペイン語に変わってしまうシスターのお話しぶりと相俟って、かの国の情熱に触れた思いがしたものでした。運よくスペイン語圏から帰国したばかりの生徒もクラスにいて、通訳をしてくれていました。50年も前から光塩にはなかなか国際的な雰囲気があったのかもしれません。

大家様の音楽との出会いを教えてください。

その昔の光塩幼稚園は、小さな木造園舎。2階のアップライトピアノで放課後にピアノを教えてくださっていたのは、シスター田中でした。ピアノが貴重品であった時代、我が家には赤い小さなトイピアノしかなく、お稽古で本物のピアノに触れるのは格別なことでした。シスターには初等科時代もお世話になりましたが、50年を経た今も、拙作の初演コンサートなどの折には駆けつけてくださることがあります。手作りの天使様のお人形などを手土産に。なかなか理解されることの難しい現代音楽という分野にいて、こうした一本の赤い糸のような繋がりが、どれほど次の創作への原動力になることか。光塩の包み込むような優しさに、今でも支えられていると思うことがあります。

光塩のために作曲してくだった記念歌について教えてください。

1980年の初等科50周年の折には、まだ音大生であった私に記念歌を作曲する機会をお与えくださいました。「光あれ」(作詞:シスター山田万里子)です。この歌が今なお卒業式などで歌い継がれていることを、つい先日知りました。演奏されることで音楽も成長していくものなのですが、長きに亘り歌をも育ててくださっている母校光塩には、感謝以外の言葉は見つかりません。

南部夏子様

時代に合わせてしなやかに変化していく光塩

南部夏子様(初等科34回生、中高58回生)

略歴

1984年(昭和59年)
初等科5年生に編入
1992年(平成4年)
高等科卒業
慶応義塾大学総合政策学部入学
1996年(平成8年)
株式会社伊勢丹入社
2009年(平成21年)
スクールユニフォームに異動。
光塩女子学院の制服の担当になる。

今の仕事に活きていることはありますか。

今思い返すと、光塩のバザーで食堂のお手伝いをしてから接客業に興味を持ち、大学を卒業後就職したのが伊勢丹でした。入社して20数年が経って、今度は伊勢丹の制服担当として、光塩と関わる機会に恵まれました。
当時は、勉強はもとより生活全般の規律が厳しく感じましたが、今は、そこで基本的な「挨拶をする」「思いやりを持って行動する」「感謝する」ことをきちんと学んだように思います。そして、何よりも先生方が温かく見守っていてくださったことに改めて気づきました。
現在の校舎も制服もカリキュラムも、当時とは異なります。社会のニーズや、子どもたちに合わせてしなやかに変化していく光塩に頼もしさを感じます。これからも、変わらない光塩、そして変わりゆく光塩であってほしいと思います。

光塩とはどのような学校ですか。

「あなたがたはユニークな存在です」そうお話しくださった校長様。一人一人がかけがえのない大切な存在なんだと、何度もお話しくださいました。自分自身のことも大切に、そして自分を支えてくださる方々のことも大切に、いつも感謝の気持ちを持ちましょうと教えてくださいました。そのせいか、光塩ではお礼の手紙を書いて、お世話になった方々に、必ず感謝の言葉を伝えていました。
大人になって「感謝の気持ちを表す」ことが苦手な人に出会います。もっと素直に表現できれば本人も周りも幸せになるのにと残念に思います。同時に光塩で学んだ「感謝の気持ちを表す」ことが、私たちの心を豊かにする貴重なことなのだと実感しています。

阿部悦子様

医師を志すきっかけ、土台を作ってくれた場所

阿部悦子様(初等科37回生、中高61回生)

略歴

1983年(昭和58年)
光塩女子学院初等科入学
1995年(平成7年)
光塩女子学院高等科卒業
1995年(平成7年)
東邦大学医学部入学
2001年(平成13年)
東邦大学医学部卒業
2001年(平成13年)
東邦大学医療センター大森病院入職
2007年(平成19年)
六本木ヒルズクリニック 入職
2015年(平成27年)
あべ耳鼻咽喉科クリニック開設

初等科時代で印象に残っていることを教えてください。

私がリレーの選手に選ばれた時、学校を病欠しがちな私を心配し、運動会当日まで体育の授業の後、私の自主練習を見守り続けてくださったことがあります。多人数のうちのたった一人の私に気をかけてくださったことがとてもうれしいなと思いながら運動会で走ったことをよく覚えています。印象に残っているのは運動会やクリスマスなどの行事というよりは、何かと先生方にお話を聞いていただいたことです。そしてふとした時に先生方が声掛けをしてくださった気がします。運動会もみんなで一生懸命練習、クリスマス会でも一生懸命練習。そこにはいつも先生方がいらして、今思うと先生方もさぞ大変だったであろうと思います。

初等科とは阿部様にとってどのような場所ですか。

私にとって初等科は医師を志すきっかけ、土台を作ってくれた場所です。「友のために命を捨てるほど大きな愛はない、常に隣人のことを想う」という理念を時に紙芝居、時に画像にてお伝えいただき、いつしか私の心と体に染みついていきました。思春期にあれこれ悩み、自分なりに克服し、この体験を何かにいかしたい、同じように悩む人がいたら力になりたい、そう自然に思い、医師になる決意をしました。

初等科での経験が今のお仕事につながっていると思われることは何かありますか。

1年前に開業する以前は、同地区で勤務医として7年働きました。開業にあたり、一番は7年間育てていただいた患者さんたちによりよい環境で医療を提供することで、恩返しができたらと思いました。小さなクリニックですが、地域に根づき、患者さんのお話に耳を傾け、病気をただ診るのではなく、個々の生活スタイル、バックグランド、心身のバランスなど包括的な治療を心がけています。こつこつとただ誠実に自分が正しいと思うことを信じて進む。これは光塩の初等科時代にシスターや先生方に教えていただいたことだと思います。

初等科入学を考えているご家庭へのメッセージをお願いします。

光塩はわりに地味なイメージ、カトリックで厳しい印象があるかもしれませんが、私はわりとのびのびと学校生活を送った気がします。120パーセントの力で体をいっぱい使って運動し、懸命に勉強した思いがあります。初めは少々気おくれするかもしれませんが、先生方は優しく時に厳しく、お子さんの教育の応援団、先輩としてとても信頼できると、母となった今、実感しております。 現在通われている初等科生には「いつも見守ってくれる人がいる」「自分のことを心から考えてくれる人がいる」ということをぜひ感じてほしいです。迷ったり、寂しかったりする、そんな時に思い出してください。女性の未来像は多様化していますが、このことはどの生き方にも通じることだと思います。シスターや先生方は深い愛情でみなさんを静かにいつもいつも見守っていてくれます。そしていつでもその心の声に耳を傾けてくださいます。そのなかでのびのびと、みなさんの可能性を広げるべく学校生活を送っていただけると嬉しいです。