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学校生活

卒業生・保護者の声

今なお歌い継がれる歌声

大家 百子 (初等科16回生、中高40回生)

略歴

1962年(昭和37年)光塩女子学院初等科入学
1974年(昭和49年)光塩女子学院高等科卒業
1981年(昭和56年)桐朋学園大学音楽学部作曲理論学科を経て同大研究科修了
文化庁海外派遣研修員として渡独、故G.リゲティ氏他に作曲を師事
1990年(平成2年)ドイツおよびフランスに計10年滞在の後、帰国

現在、桐朋学園大学、青山女子短期大学、各講師。女声合唱団コール・モモ指揮者。
現代音楽協会会員、OTO(おと)の会メンバー。作曲家として大家百子、福永百子の筆名で活動。
主要作品:≪薺舞(なずなまい)(Shamisen+Orch.)≫ ≪はんぶんづき(F.Chor)音楽之友社刊≫≪Duo~第2番~(Accordion+Piano)OTOの会出版刊≫他。

OTOの会

初等科時代で印象に残っていることを教えてください。

当時はシスター方のことをマドレとお呼びしていました。1年生の時の英語の先生はアメリカからいらしたマドレメルセデス。今でこそ珍しくはないかもしれませんが、英語で英語をお習いするような授業でした。シスター手作りの挿絵カードでたくさんの英単語を覚えましたが、「Jack O' Lantern(ジャックオウランタン)」のカードに、随分長い言葉だなぁ・・なんでカボチャの顔はこんなに怖いの?アメリカってどんな国かな?などと思ったことを今でも鮮やかに覚えています。4年生の頃にはスペインから見えたシスターローサの手芸の授業がありました。クロスステッチ刺繍でクッションを作りましたが、黒い布に赤や緑の糸といった鮮やかな色彩の教材が配られ、興に乗るとスペイン語に変わってしまうシスターのお話しぶりと相俟って、かの国の情熱に触れた思いがしたものでした。運よくスペイン語圏から帰国したばかりの生徒もクラスにいて、通訳をしてくれていました。50年も前から光塩にはなかなか国際的な雰囲気があったのかもしれません。

大家様の音楽との出会いを教えてください。

その昔の光塩幼稚園は、小さな木造園舎。2階のアップライトピアノで放課後にピアノを教えてくださっていたのは、シスター田中でした。ピアノが貴重品であった時代、我が家には赤い小さなトイピアノしかなく、お稽古で本物のピアノに触れるのは格別なことでした。シスターには初等科時代もお世話になりましたが、50年を経た今も、拙作の初演コンサートなどの折には駆けつけてくださることがあります。手作りの天使様のお人形などを手土産に。なかなか理解されることの難しい現代音楽という分野にいて、こうした一本の赤い糸のような繋がりが、どれほど次の創作への原動力になることか。光塩の包み込むような優しさに、今でも支えられていると思うことがあります。

光塩のために作曲してくだった記念歌について教えてください。

1980年の初等科50周年の折には、まだ音大生であった私に記念歌を作曲する機会をお与えくださいました。「光あれ」(作詞:シスター山田万里子)です。この歌が今なお卒業式などで歌い継がれていることを、つい先日知りました。演奏されることで音楽も成長していくものなのですが、長きに亘り歌をも育ててくださっている母校光塩には、感謝以外の言葉は見つかりません。

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